・飯田城が何時頃築城されたのかは不明ですが、長く当地を支配した五十嵐氏の居館である五十嵐館の詰め城として築かれたと推定されています。
五十嵐氏は第11代垂仁天皇の第八皇子である五十日帯日子命の後裔とされる氏族です。
伝承によると、5世紀初期天皇の勅命により越の国の開発を命じられた五十日帯日子命は頸城郷、上田郷、下田郷を開墾したものの飯田宮沢の地で薨去、現在の五十嵐神社の境内に葬られたと伝えられています。
後裔は当地に土着したようで、5日目毎に風が吹き、十日毎に雨が降る事が豊作の兆しとされる「五風十雨」が、縁起の良い意味である事から「五十嵐」姓を掲げました。
その後、当地は五十嵐保と呼ばれ、五十嵐氏はそこを治める土豪になったとされます。
一方、当地に伝わる民話によると、昔、笠堀村の村長である勘右衛門の娘の元に毎晩、夜這いをする男が居たそうです。
男は名前も身分も語らなかった事から、娘は父親と相談し、男が帰る時、糸を結んだ針を着物の裾に刺して、それを頼りに八木山下の川淵にある男の棲家を探し出しました。
しかし、そこには男の姿は無く、苦しそうにもがいている一匹の大蛇がいました。
大蛇は自分が夜這いをしている男である事を告げ、何者かに刺された針により、もう命が幾ばくも無い、子供は子孫まで守護すると告げ、姿を消したそうです。
その後、娘は腋の下に三枚の鱗がある元気な男の子を出産し、この子供が五十嵐家の祖になったと伝えられています。
別の民話では、娘と龍神との子供である五十嵐小文治が力試しの為、五十嵐館から大石を投げ込み、現在の五十嵐神社の境内にある大杉にめり込んだと伝えられています。
五十嵐小豊治は源頼朝に仕えた後は北条家に従い、建暦3年に和田合戦が発生すると北条義時方として参戦し、討死しています。
天正6年に発生した御館の乱で、五十嵐家は敗北した上杉景虎に与した為、没落した事から飯田城も程なく廃城になったと思われます。
新潟県:城郭・再生リスト
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