・当地は館ノ越と呼ばれ長く下条氏の居館があったとされます。
下条氏は鎌倉幕府の有力御家人だった大見氏出身とされ、文永2年に源頼朝の命により大見家久が地頭として越前国蒲原郡金津下条郷に配され、地名に因み「下条」姓を掲げたとされます。
明応8年には長尾為景に従った下条駿河守貞直が駒林村の開発を行い近隣の国人領主である水原氏とも婚姻関係を結んでいました。戦国時代には下条忠親は上杉謙信に従い、川中島の戦いにも従軍し功績を挙げ「采女」を名乗ったとされます。
天正6年に謙信が死去するとその後継を巡って越後国を二分した御館の乱が発生、その際、忠親は上杉景勝を支援しました。
天正9年に発生した新発田重家の乱でも景勝方として活躍し、天正10年には下条城が最前線の拠点の一つとして阿賀北防衛の重要な役割を果たしました。新発田重家の乱が終結すると、その功績により新発田氏の居城だった新発田城の支城五十公野城を賜り、1724石が安堵されています。
慶長3年に上杉景勝が会津に移封になると秋山定綱と共に二本松城代として4700石に加増、二本松城に遷り当地を離れた為、下条城は廃城になったと思われます。
慶長6年に景勝は関ヶ原の戦いで西軍に与した為、米沢藩30万石で移封になると長井の鮎貝城の城代1333石に減じられています。その後も下条氏の後裔は大坂の陣に参陣する等活躍し米沢藩の要職を担っています。
当地は江戸時代に入ると新発田藩の支藩である沢海藩に属し、寛永11年に溝口安勝が藩から1000石が分よされた事を受け、その支配の為に陣屋を設けました。
溝口安勝は沢海藩初代藩主溝口善勝に三男として生まれ、寛永11年に3代将軍徳川家光に謁見すると山口溝口家を起して、旗本となっています。安勝は慶安3年に書院番士に抜擢された後は、寛文4年には北関東の巡検使を勤め、寛文9年には目付代として松平忠房への島原城引き渡しを行っています。
その後も使番や監察、使者等を勤め天和2年には上野国山田郡内500石が加増されています。跡を継いだ溝口友勝は弟の常勝に上野国山田郡内500石を分与し再び1000石となっています。以後、山口陣屋は山口溝口家の采配地支配の為の行政施設として利用されましたが、明治維新御に廃されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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