・羽生田城が何時頃築かれたのかは判りませんが、羽生田周防守吉豊の居館だったとされます。
伝承によると応徳年間に前九年合戦に敗北した安倍貞任の一族である安倍正任の子供、黒島兵衛詮任は貞任の愛妾とその子供を護る為に戦場を離脱し鳥海山に落ち延びました。
力を蓄えた詮任は越後国に侵攻、金菅沢城の城主だった羽生田周防守は弥彦地方の領主である櫻井宗方と共同してこれに対処しましたが、敗北し金菅沢城に引き上げています。
金菅沢城は黒島勢に囲われ、籠城戦を展開するものの、食料搬入口も塞がれ、重陽の節句である9月9日に落城、周防守は落ち延びたものの、奥方の秋篠は捕縛されています。
周防守は従兄弟の山本二郎左衛門泰氏を頼り、出雲崎城に身を寄せ、征夷大将軍に源頼義に援軍を要請、頼義が北畠時定に黒島勢の討伐を命じています。
周防守は時定軍に合流し奮戦を繰り返したものの、次第に劣勢に追い込まれ、時定も討ち取られています。時定は死の間際、佐渡の加茂二郎義綱に加勢を頼むよう書状を託し息を引き取っています。
周防守は書状を携え佐渡の加茂次郎に助力を請うと、意気に感じ、参陣を約束すると弥彦に本拠地を遷し、各地から軍を募りました。
一方、周防守は商人に姿を変え、軍資金の調達に尽力しましたが、黒島氏の重臣である鳥屋野悪五郎に見つかり討死、首は晒されたとされたと伝えられています。
悪五郎は周防守の奥方の秋篠を無理やり妻としており、その首を見た秋篠は覚悟を決め、悪五郎に勝利の酒を進めると酔い潰れた隙をついて、首を欠き切り夫の仇討ちを果たしたそうです。
秋篠は周防守の首を抱え鳥屋野勢を離れると羽生田郷の鎮守である羽黒神社の境内に首を埋葬し自ら尼となって生涯弔ったと伝えられています。
羽生田城は現在の土生田神社境内一帯とも云われ、土塁跡と思われる土盛や堀跡と思われる水路が見られます。
新潟県:城郭・再生リスト
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