・小島谷陣屋は元禄10年に高田藩主稲葉丹後守正住が弟である稲葉左衛門通周に小島谷領1千石を分知した際に、設けたと推定されています。
正往は寄合に列格し、5代将軍徳川綱頼との謁見を果たすと旗本となり、元禄15年には御徒頭、宝永6年には御小姓組の組頭等を歴任しています。
跡を継いだ通周の次男稲葉通度も寄合に列格し、寛保元年に中奥の番士、宝暦7年に御徒頭の任を担っています。
宝暦9年に通度が死去すると嫡男の稲葉通鉄が跡を継ぎ小普請を担い、明和4年に西ノ丸の御書院番、安永4年に進物役等を歴任しています。
小島谷稲葉家は定府だった事から統治の有力者だった久須実家が代官となり、久須美家の邸宅の一部が陣屋として利用されています。
久須美家の祖は「曽我物語」で仇討ちを果たした曽我十郎祐成の忘れ形見と伝わる権兵衛祐寛で、故郷の地名に因み「久須美」姓を掲げたとされます。
当初は上野国白井郷に住していましたが、父親の祐成は仇討ちを果たしたものの有力御家人である工藤祐経を殺害した罪人でもあった為、その罪を逃れる為、祐寛が13歳の時に越後国逆谷村曼荼羅寺の寺麓に隠れ住み、その後、日野裏村上村鹿島宮に移り住んでいます。
久須実家が現在地に移り住んだのは17世紀半ばの14世久美六郎左衛門政幸の代からで、以来、小島谷稲葉家の代官を歴任しています。
一方、久須美家は有栖川宮家との関係が深く、22世祐福と23世祐之、24世祐良、26世祐伸は上洛し宮家に奉仕しています。
戊辰戦争の際、祐伸は主家である稲葉穂波を説得し官軍方に加担させ、自らも北越鎮撫使に謁見し、官軍の兵站や武器の補給に尽力しましたが、越後国は奥羽越列藩同盟に加盟する藩が多く、小島谷陣屋も旧幕府軍に接収され2ヵ月間にわたり占拠されています。
戦局が新政府軍に大きく傾くと、旧幕府軍も小島谷陣屋を放棄、その際、価値の高いものや必需品は簒奪され、最後は火をかけられた為、多くの建物は焼失しています。
庭園は享保年間に作庭されたもので、背後の丘陵や正面の弥彦山を借景とし、池や滝、布石、老松、梅桜、楓等を巧みに配した新潟県内でも優れた名園として知られ貴重とされます。現在は「住雲園」として整備保存され一般公開されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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