立ノ内館

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立ノ内館:略データ
・場 所・新潟県妙高市乙吉
・築城年・−
・築城者・−
・城 主・堀江駿河守宗親
・構 造・居館
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・立ノ内館が何時頃築かれたのかは不詳ですが、背後に築かれた鮫ヶ尾城の城主の居館として設けられたと推定されています。

一方、鮫ヶ尾城も明確な築城年は不詳で一般的には永正〜天正年間に上杉家が北国街道を利用し領内に侵攻する敵を想定し、その防衛施設として築いたと推定されています。

鮫ヶ城は春日山城の最終防衛ライン的な要素が強かった事から規模が大きく重臣が配されたと思われますが、歴代城主の名も伝わっていません。

最後の城主となった堀江駿河守宗親も赴任時期は不詳とされます。

堀江宗親の出自は不詳ですが、一説には頸城郡青木を本貫とする村山氏の一族とも、越前国守護職朝倉氏の家臣である堀江氏の一族とも云われています。

永禄7年には第5継ぎ川中島合戦の際、武田信玄の本陣の探索や、武田方の城の偵察役を担っています。

永禄8年の上杉家の関東侵攻の際には名立たる武将と共に先陣として名を連ねており、上野国長井まで軍を進めています。

元亀2年の越中侵攻にも従軍したようで、「堀江駿河守ニ敵地江調義申付候処」と上杉謙信感状に記されています。

天正5年には当時の上杉家の最前線である加賀国津幡城の城主に抜擢されかなりの地位だった事が窺えます。

天正6年に上杉謙信が死去すると、その後継を巡り、養子となっていた上杉景虎と上杉景勝が対立し、所謂「御館の乱」が発生、宗親は景虎方に加担し1万の兵を率いて御館に入っています。

その後、宗親は鮫ヶ尾城に入り、翌年に御館が陥落すると、景虎を迎え入れ実家の北条家が領する関東に逃がす算段でしたが、景勝方の安田顕元から調略を受けており、景虎が鮫ヶ尾城に入った際には既に景勝方に転じていたとされます。

景虎が本丸に入ると宗親は二之丸に火を放ち、城外に脱出、そこに景勝方の大軍が鮫ヶ城を攻め立て為、景虎は敗北を悟り、妻子共々自刃しています。

その後の宗親の詳細は不詳となり、天正8年の上杉景勝判物には顕元の弟である安田能元領に、宗親領が組み込まれている為、所領が取り上げられた可能性があります。

同じく景勝方として大功を挙げたものの冷遇され新発田城で反乱を起した新発田重家と共にいいように利用された挙句、切り捨てられた可能性もあり、調略を行った安田顕元は自責の為か自刃しています。

立ノ内館の跡地は現在の勝福寺の境内と周辺の畑地付近とも云われ、土塁と思われる土盛が一部残されている他、発掘調査では堀や、建物の跡等が確認されています。

勝福寺は山寺三千坊の一翼を担っていましたが、その後、鮫ヶ尾城の城下に遷され真言宗の寺院として篤く庇護されたとされます。

御館の乱の兵火で大きな被害を受け一時衰微しましたが、現在地に浄土宗の寺院として再興されています。

境内には景虎の供養塔と石像が建立されており、毎年4月には景虎の法要が営まれています。

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