・能代館が何時頃築かれたのかは不詳ですが、鎌倉時代初期は能代の領主だった能代左衛門尉菅吉の居館だったと推定されています。
伝承によると、承久の乱に敗北し佐渡島に配流となった順徳天皇の皇子である廣臨親王は父親を慕って佐渡島に渡ろうと近習である湯浅清忠、高野惟忠、北小路信広三男信房、千野帯刀、二平重考、二平重政等20余人を従い越後国に下向しました。
しかし、なかなか佐渡島に渡る事が出来ず、鎌倉方の追手から逃れる為、麓村、竜玄村、鵜ノ森村、矢代田村、朝日村等度々居を変え、最後は能代左衛門尉の居館に匿われる事になりました。
ところが、能代左衛門尉が匿っている事が鎌倉方に知られた為、親王は密かに館を脱出し小口村の間入路閑斎の屋敷に逃れました。
さらに、左衛門尉に親王の追討令が出された為、左衛門尉はやむを得ず軍勢を率いて小口村の閑斎入道の屋敷を攻め立てると、親王は逃れる事が出来ず自害したとされます。
貞永元年、享年16歳、御尊骸は自害した観音山の山頂に葬られ、小堂を設けると親王の守り本尊だった観世音菩薩像が安置されたそうです。
嘉禎2年、生き残った遺臣が土豪達を集めて、左衛門尉菅吉の襲撃に成功、その後も能代家には不幸が重なった事から親王の祟りと悟り、館内に親王の御霊を勧請し奉斎したとされます。
尚、廣臨親王は順徳天皇の第2皇子の顕成王の事とされますが、宮内庁の皇統系譜には掲載されていません。
一方、安永元年に観音堂が再建された際、柏崎陣屋の松平越中守の命により陵墓の発掘調査が行われ、土中から長さ9尺余、横幅5尺余の石廊があり、そこに納められた櫃の中からは劔や冠、笏、白瓶(骨壺)、箱、大太が確認され、再び埋蔵されたと伝えられています。
永正年間に編纂された「蒲原郡白河庄等段銭帳」には「菅名庄能代之条内長尾方被官能代小三郎方、同庄丸田条内能代小三郎」と記されている事から能代家は戦国時代には越後守護職長尾家の被官だった事が窺えます。
本格的な調査は行われていませんが、15世紀から16世紀の遺物が複数確認されていおり、戦国時代まで館が利用されていたと推察されています。
能代館は方80mの単郭の居館と推定され、幅5〜6m、高さ2m程の土塁と堀で周囲を囲っていました。現在でも3方向の土塁が残され、往時の3方向の土塁が残され、往時の雰囲気が感じられます。
新潟県:城郭・再生リスト
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