・元治元年、会津藩主松平容保は家臣達の反対をよそに火中の栗を拾うに等しい京都守護職に再任を承諾しています。
特に容保は孝明天皇から信任が篤く公武合体に尽力していた事からその関係上、皇居や京都の安寧に苦心していたと思われます。
それらに功績により会津藩は5万石が加増され、元治2年に酒屋村が会津藩領に組み込まれています。
当地の支配は元々天領で水原代官所が管理し、会津藩も引き続き水原代官所を利用していましたが、慶応3年に交通の要衝で、信濃川と小阿賀野川が合流する舟運の拠点である酒屋村に陣屋を設けて新たな拠点としました。
当初は庄屋宅を仮の役宅として利用し、完成する前に大政奉還を迎えています。
しかし、孝明天皇から最も篤く信頼されていた容保は薩長の策略により賊軍に祭り上げられ、新政府軍の恰好な標的となりました。
慶応4年に戊辰戦争が勃発すると酒屋陣屋には会津藩、長岡藩、村松藩、新発田藩、村上藩、高崎藩の代表が集まり、所謂「酒屋会議」が行われています。
ここでは、新潟湊を中心とした近隣の幕府領は越後諸藩が管理し、台場の築造や大砲の整備が決定し、その費用や年貢の取立ての方法、外国船との貿易等が話し合われています。
会津藩は水原代官領6万7千石の他、出雲崎代官領2万8千石、脇野町代官領1万8千石等も預けられる形となった為、越後国内では合計20万石に迫る石高となり、さらに、酒屋会議の結果、新潟湊の実質的な支配権を得た事になります。
会津藩は酒屋陣屋に300人を出兵させ新政府郡の侵攻に備えたものの、軍資金が乏しかった事もあり、各地で強制的に農兵の取立てや、軍資金、食料の調達、時には強奪を行った事で次第に民衆からの支持を失ったとされます。
旧幕府郡の残兵で結成された衝蜂隊は飯山城付近で新政府軍と交戦中に高田藩の裏切りにより戦線っが崩壊、さらに農兵に襲撃を受け、兵力を三分の一まで減らしながら小千谷陣屋を経て酒屋陣屋まで撤退しています。
しかし、会津兵は民衆から敵視されるようになっており、6月には会津領に引き上げています。
8月には俵柳村出身の小林政司が率いる勤皇農民義勇兵による金革隊により襲撃され酒屋陣屋は陥落し、旧幕府軍は四散し多くは新津に撤退しています。
新潟県:城郭・再生リスト
|