・宝積寺館が何時頃築かれたのかは不詳ですが、発掘調査により14世紀後半から15世紀頃の遺物が確認されている事から南北朝時代から室町時代頃に当地の領主だった竹俣氏が居館として利用したと思われます。
特に出土品の墨書板碑は貴重な事から新発田市指定文化財に指定されています。
館跡からは様々な焼物等生活用品が出土したものの、16世紀代の遺物が極端に少なくなる事から竹俣氏は居城を他所に遷したと思われます。
天正9年に上杉景勝に従った竹俣慶綱が越中国侵攻の拠点となった魚津城の侵攻を食い止めていましたが、6月に遂に力尽き、城内に居た山本寺景長、中条景泰、吉江宗信等と共に自刃して果てた事から嫡流が断絶しています。その後、竹俣家の名跡は長尾景人が継いだ為、宝積寺館も廃されたと思われます。
現在跡地に境内を構えている宝積寺は承和13年に橘無源珍院徳叟大庵主が開基となり開創した寺院で、文明2年に竹俣氏が耕雲寺五世徳嶽宗欽大和尚を招いて曹洞宗に改宗し竹俣家歴代の菩提寺としています。当初の宝積寺は沢の内砦に境内を構えていたと思われ、15世紀後半から16世紀前半の青磁の椀等が発見されています。
宝積寺館は東西205m、南北220〜270m、中世の居館としては最大級の単郭方形居館で、敷地内には多くの施設が建てられていました。ただし、館全体の敷地に対して、主要建物の規模は小さく、数度に渡り建て替えが行われたと推定されています。館の周囲は堀と土塁で囲われ、宝積寺の境内東側に土塁と、畑地の窪みが堀跡と思われます。山門の前面に流れる水路と土盛は館の遺構とは関係が無いようです。
宝積寺の境内には竹俣家一族の墓碑と伝わる宝篋印塔が複数残されており、歴史が感じられます。
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