・大関城が何時頃築かれたのかは判りませんが、戦国時代には上杉景勝に従った大関阿波守盛憲が居館として利用していました。
大関氏の明確な出自は不詳ですが、建仁年間に佐々木盛綱の一族で下野国那須郡出身の丹治左衛門俊秀が東頸城郡松之山に遷り住「大関」姓に改め上杉家に従ったとされます。
別説によると貞治2年に関東管領で越後国守護職の上杉憲顕の家臣である大関兵部が栃尾城主になったとされます。
又、伝承によると、大関氏は関東管領上杉憲政の家臣だった家柄で、憲政が小田原北条氏に敗れ、上杉謙信を頼り越後国に落ち延びた際、随行したと伝えられています。
その後は栖吉長尾家の家臣として栃尾衆と呼ばれる家臣団の一翼を担い、その一族が応永28年に浦佐城を築いたとされます。
大関盛憲も浦佐城の城主だった時期があったようで、天文15年に子供とされる大関親憲(後の水原常陸之助親憲)が城内で生まれています。
ただし、「大関氏系図」によると盛憲には三男一女を設けたものの、男子の中に親憲の名を見る事が出来ない事から真偽の程は不明です。
永禄2年の上杉謙信の家臣団を記した「諸国衆御太刀之次第写」によると盛憲は序列32位、抜露太刀之衆第29位に格付けられており、有力家臣だった事が窺えます。
天正6年に謙信が死去すると上杉景勝に従ったと見られ、新発田重家の乱の際には大関城(田中城)は重家方の新潟城攻略の兵站補給の拠点として機能したようです。
慶長3年に上杉景勝が会津に移封になると当時の長子の大関弥八郎資之は帰農して蒲原郡に村を起し、三男の蔵介成綱も帰農し伊夜彦荘に土着した事から大関城は廃城になったと思われます。
大関城は湿地帯の微高地に築かれた中世の平城で、主郭は東西約50m、南北約80m、周囲には幅数mの堀が巡り、主郭の外側の外郭にも堀があり、二重に堀に囲われていたようです。現在は住宅地や畑地、小学校の敷地等に利用され、目立った遺構は失われています。
近隣にある越後善光寺は弘治元年に大関阿波守盛憲が開いたと伝わる寺院です。
伝承によると、盛憲の娘である桂姫は生れながら腋の下に蛇の鱗のような痣があり、医者や霊媒師に見せたものの中々完治しませんでした。
奥方は娘の将来を案じて、桂姫を伴い信濃善光寺に赴き21日間に及ぶ痣の平癒の祈願を行うと、満願の日に不思議と美しい肌になりました。
母娘は仏意に感謝し、篤く帰依した事から信州善光寺から本尊を模した阿弥陀三尊像を授かり、当地に如来堂を設けたと伝えられています。
新潟県:城郭・再生リスト
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