・高柳館が何時頃築城されたのかは不詳ですが、上杉家の家臣とされる小島弥太郎に居館だったとされます。
妙高市蔵々は小島姓が多く、慶長3年に上杉景勝が会津移封になったものの小島家は従わず、当地に土着、帰農したとも云われています。
小島弥太郎は上杉家の軍役帳や名簿の記載されていない事から実在していない可能性がありますが、一般的には妙高高原出身とも云われ長尾為景に仕えていたそうです。
長尾景虎(上杉謙信)が当主になると側近として仕え、身長が当時としては珍しい程の6尺を越える大男で力士衆に属していたとされます。
天文22年に謙信の上洛が決定すると12代将軍である足利義輝が、謙信を脅かせマウントをとる為、猛犬を襲わせようと画策していた事から、それを察した謙信は1日早く弥太郎を上洛させました。
弥太郎は、密かに猛犬が飼われている檻に侵入し、自分の力を見せつけると猛犬も感服し、あっさりと手懐けられてしまいました。翌日、謙信の上洛の傍らには弥太郎が付き添っていた為、猛犬が謙信を襲う事が出来なかったと伝えられています。
又、川中島合戦の折、謙信は信玄への使者として弥太郎を派遣、弥太郎が信玄の前で口上を述べると、1疋の猛犬が信玄の陣に紛れ込み、弥太郎の腕に噛みつきました。しかし、弥太郎は何事も無かったように口上を続け、信玄の返事が終わると共に猛犬を地面に叩き付け、そのまま信玄の陣を去ったと伝えられています。
又、永禄4年の第4次川中島合戦の折、弥太郎は奇しくも武田家の猛将として知られている山県昌景と一騎打ちとなりました。力や技量は互角で中々勝負が付けられないままでいると、昌景に信玄の嫡男である武田義信が窮地に陥るのが目に止まりました。
昌景は弥太郎に対し、武士の情けで主君の御曹司を助けたいので、勝負を預けたいと懇願すると、弥太郎は、主人に忠義を尽くす事は最もと事だと快く快諾した事から、昌景は「人は弥太郎の事を鬼だ、鬼だと言うが、花も実もある勇士である。」と褒め称えたと伝えられています。
高柳館は東西75m、南北55m、周囲を堀と土塁で囲っていたと思われ、現在も多くの堀と土塁の一部と思われる土盛が残されています。周囲には「館の内」や「馬場」、「外堀」等、城郭があった名残と思われる地名や通称が見られます。
新潟県:城郭・再生リスト
|