・高柳陣屋は元禄15年に丹羽氏音が当地に入封し、高柳藩を立藩した際に藩庁として設けられました。
丹羽氏音は岩村藩2代藩主丹羽氏定の弟である丹羽信氏の次男として生まれましたが、4代藩主丹羽氏明が妻子がなく、20歳という若さで疱瘡により病死した事から、養子として丹羽家の家督を継ぎ、岩村藩5代藩主に就任しています。
当時の岩村藩の財政は逼迫していた事から氏音は若輩ながら有能だった山村瀬兵衛を側用人として抜擢し大胆な藩政改革を行ったものの、既得権益を有していた既存勢力との軋轢を生みました。
既存勢力は瀬兵衛を排除する為に幕府に訴えた事で、騒動が明るみになり氏音は2万石の岩村藩から高柳藩1万石に減封処分となっています。
氏音は岩村藩主時代には城主格でしたが、無城定府格に格下げになった為、当地には城郭を築く事が出来ず、陣屋を設け代官を派遣するに留まっています。
宝永2年に氏音が死去すると子女が居なかった事から氏音の兄である丹羽氏右の長男、丹羽薫氏が末期養子として認められ、薫氏が家督を継ぎ高柳藩2代藩主に就任しています。
薫氏は享保4年に奏者番、元文4年に大坂城定番に任ぜられ、延享3年には当地より大坂城に近い播磨三草藩に移封となった為、高柳藩は廃藩、高柳領1万石は高田藩主の久松松平家の預かり地となり、陣屋も廃されています。
高柳陣屋は現在の速念寺から東側一帯に置かれており、藩主居館を伴わなかった事から比較的に小規模だったと推定されています。官地と思われる空地が堀跡のようにも見えますが、明瞭な遺構が失われています。
新潟県:城郭・再生リスト
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