・古舘館が何時頃築かれたのかは判りませんが、三浦和田氏の一族である高野氏の居館だったとされます。
当地を含む奥山荘は越後国蒲原郡にあった荘園で、12世紀頃は摂関家領として城氏が開発し管理していましたが、城氏が没落すると三浦氏の一族である和田義盛の弟の和田義茂が地頭となっています。
建治3年に和田時茂(沙弥道円)は奥山荘を「中条」、「北条」、「南条」に3分割し、それぞれ3人の孫である茂連、茂長、義基に相続させました。
北条内の高野条(郷)は時茂の弟である高井義重の系統が配され、地名に因み「高野」姓を掲げたと思われます。義重の娘は北条の和田兼連と中条の和田茂泰となっており、一族間と婚姻関係を結ぶ事で地位を確立しています。
「波月条絵図」には高野市が描かれている事から当地が和田氏一族にとって重要視されている事が窺えます。時茂は義重に対して、茂長に公事賦課を受けるように定めています。
貞治2年/正平19年、高野氏は黒川時実と奥山荘の所領を巡って対立しています。14世紀後半頃に高野条は北条家の所領となっており、義重系の高野氏は没落したと思われます。
その後、茂長の後裔の黒川氏が一時居館としていたようで、本城を黒川城に遷すと一族が当地に配され「高野」姓を掲げたようです。文明12年に城主だった高野馬場丸の代で古舘館が現在の城域に拡張され、土塁や堀等も整備されたと推定されています。
古舘館が何時頃廃城になったのかは判りませんが、発掘調査によると16世紀の遺物が発見されている事から少なくとも戦国時代にも利用されていた事が窺えます。
一方、古舘館の跡地に境内を構えている常光寺の「過去帳」によると「堀近江守一万石の館跡也」と記している事から、江戸時代初期、春日山城の城主となった堀家の有力一族が当地に配されていた可能性があります。
古舘館は東西108〜120m、南北56〜72m、主郭の他、南郭と東郭があり、周囲を土塁と堀で囲っていました。古舘館の跡地は現在も土塁や堀の遺構が残され、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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