・上関城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、長く当地を支配した三潴氏が居城として利用していました。
三潴氏は筑後国三潴荘を本貫とした豪族でしたが、鎌倉幕府成立後に三潴左衛門尉が桂関の関吏に任ぜられ、当地に下向しています。桂関は現在の関川村上関の荒川左岸の温泉橋付近と推定されています。
その後も一族は当地に留まっていたと思われ、南北朝時代には越後国守護代官に就任していた三潴左衛門大夫が、黒川氏の領地の境界線の証人として立ち会っています。
応永33年、越後国の国人領主達は守護方と守護代方に分かれ相争い、結果的に当時の守護職だった上杉房朝が勝利、その際、守護代方に加担した黒川氏実の改易を回避する為に三潴氏が尽力しています。
長禄3年、上野国(現在の群馬県)の羽継原で大きな合戦があり、室町幕府の命を受けた越後国守護職の上杉房定は越後国の国人領主達に従軍を促し、それに応じた三潴弾正も参陣したものの討死し、翌年、跡を継いだ三潴帯刀左衛門尉に8代将軍足利義政から感状が送られています。
明応9年、越後国北部を支配していた本庄氏が反乱を起し、守護軍が当地まで進軍してくると三潴飛騨守は胎内川での合戦に備え案内等の役割を担っています。
戦国時代に入ると上杉謙信に従い、天文22年に発生した第一次川中島合戦では武田軍の1千3百人から成る一隊を三潴掃部介利宣隊が壊滅させる大功を挙げています。
三潴出羽守政長は謙信から篤く信任されていたようで、永禄4年には謙信の代わりに第13代将軍足利義輝に謁見しその役割を終えた永禄5年には義輝から刀を拝領しています。
跡を継いだと思われる三潴左近大夫長能も重用されましたが、天正6年に謙信が死去し、その後継を争った御館の乱で、敗北した上杉景虎方に加担したようで、勝利した上杉景勝からは冷遇され、事実上改易になったと思われます。
天正11年、本庄繁長の後ろ盾を得て復権したものの、大きく知行地を減じられ、慶長3年に景勝が会津に移封になるとそれに随行し当地を去っています。
上関城は、この時廃城になったとも、村上家の家臣が利用したとも云われています。
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