・蔵光館が何時頃に築城されたのかは判りませんが、関係が深いと推察される香伝寺の古文書によると佐々木加地氏8代当主加地資秀の代に越後国に入部した事から、鎌倉時代後期から室町時代初期頃に築かれたと推定されています。
加地氏の惣領の居城は加地城とされる為、蔵光館は一族が利用したと思われますが、詳細を記した記録が無い為、具体的な館主は判りません。
加地氏は南北朝の動乱の際、一族同士が南朝方と北朝方に分かれ相争った為、大きく力が削がれ、惣領制は崩壊、多くの一族が土豪レベルとなって割拠したようです。
戦国時代に入ると一族は加地氏系と新発田氏系の2系統に集約し国人領主と呼ばれるレベルまでに回復しています。
その後は上杉謙信に従い、加地春綱は謙信の姉を奥方に迎える等信任を得て七手組大将や上杉二十五将の1人に数えられました。
跡を継いだ加地秀綱も川中島の戦いに従軍し大功を挙げる等重きを成しましたが、天正6年に謙信の死去に伴う後継者争いである御館の乱では、敗北した上杉景虎に与した為、同族ながら勝利した上杉景勝に加担した新発田重家や五十公野道寿斉に加地城が攻められ落城、その後は新発田氏に従っています。
天正9年に新発田重家の乱が発生すると秀綱は重家方に加担した為、上杉景勝方に加地城を攻められ落城、秀綱もこの戦いで討死し、加地氏は没落しています。蔵光館も加地氏の没落に伴い廃城となったと推定されています。
館跡に境内を構えて香伝寺は治安元年に平保比久尼が開基となり開創した曹洞宗の寺院です。
当初は天台宗で、神応院と号していましたが、文治元年に佐々木盛綱の菩提寺となり、永正6年以前に村上の耕雲寺八世固剛宗厳を迎えて曹洞宗に改宗開山し、寺号を香伝寺に改めています。
天正年間に加地春綱が再興し、蔵光館が廃された後に境内を遷したと思われ、本堂には春綱と景綱の位牌が安置されています。
蔵光館は約70mから100m四方の単郭の居館で、現在も香伝寺の境内を取り囲むように土塁が残されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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