・山浦城が何時頃築城されたのかは山浦氏が居城として利用していたと推定されています。
山浦氏は鎌倉時代に白河庄の地頭として赴任してきた大見氏の一族とされます。
大見氏は伊豆国大見郷を本貫とする氏族で、早くから源頼朝に従い、治承4年に行われた石橋山の戦いにも参戦し、敵方の主力である大庭景親隊と対峙しています。
その功績から大見家秀と大見実政が本領安堵と越後国白河庄の地頭職に補任されています。
大見氏は鎌倉幕府の有力御家人として幕府内でも影響力が大きかったと推定されますが、台頭してきた北条氏が次々と政敵を粛清し、その危機が大見氏にも追った事から越後国白河庄に移住を決断しています。
大見氏は白河庄の内、安田郷と水原郷を本貫とし、後裔である大見時実は「安田」姓、大見家綱は「水原」姓、大見家政は「山浦」姓を掲げました。
山浦市は家政の後、家貞、家経が跡を継ぎましたが、その後の詳細は判らなくなっています。
山浦城は標高39.3mの小高い山に境内を構えている旦飯野神社境内一帯が城意気だったとされ、頂部の35m四方の主郭を中心に西側に帯廓を配しています。
主郭の周囲は土塁と空堀が廻っていたと推定され、土塁跡と思われれる土盛と、空堀跡と思われる窪みが残されています。又、麓の周囲は湿地帯だったとされ、天然の外堀に見立てられていたと思われます。
山浦城の廃城年は不詳ですが、戦国時代に拡張整備した形跡がある事から、比較的長く利用されていた事が窺えます。
城跡に鎮座している旦飯野神社は仁徳天皇元年に仁徳天皇の往時である大山守皇子に貢物を行った際、皇子から角鹿笥大神と飯津神を奉斎すれば穀物が豊作になると教授された為、開創された神社で、延喜式神名帳に式内社として記載された論社です。
新潟県:城郭・再生リスト
|