・江上館は15世紀代に中条氏の居館として築城されたと推定されています。
中条氏は桓武平氏越後和田氏の一族で、和田義茂が治承・寿永の乱で功績を挙げ、奥山荘地頭に就任し、その一族が当地に土着し勢力を拡大しました。
和田合戦の際には一族を離反し、幕府方に協力した和田重茂が引き続き奥山庄の地頭職を安堵されています。
宝治元年に発生した「三浦氏の乱」でも多くの和田一族が三浦氏方に加担したものの和田時茂は執権北条氏方に味方し勝利した為、改めて奥山庄地頭職を安堵されています。
建治3年に時茂は3人の孫の所領を分割し本流となった和田茂連の後裔が中条氏を名乗り、一族の惣領家となっています。
鎌倉幕府滅亡時には一時所領を失いましたが、中条茂継の尽力に幕府方と朝廷方の両方から本領を安堵されています。
南北朝の動乱では北朝方である足利氏に属し、地位を確立しています。
応永30年に発生した応永の乱の際、中条房資は本庄氏や色部氏、加地氏等と共に越後国守護職の上杉房朝方として行動し、敵対した守護代長尾邦景方である山吉久盛が籠る三条嶋城に攻撃を加えています。
房資は一貫として守護側でしたが、他の国人領主達は時として守護代方にも味方した為、時々窮地に追い込まれています。
戦国時代に入り、守護職上杉房能と守護代長尾為景との対立の際、中条藤資は為景方に守護方の本庄城(村上城)を攻め落城させています。
享禄3年に発生した上条の乱の際、藤資は色部氏、本庄氏、黒川氏等と上条氏方に加担し、今度は為景方と対立しています。
幕府の朝廷により和睦が成立すると、その後は為景に従い、為景に従い、為景が死去し長尾晴景が家督を継ぐと、越後邦守護職に上杉定実が復権し、その後継を曾孫で藤資の外孫である伊達時宗守を推した為、藤資も定実方に加担しています。
これは中条氏の台頭と伊達家の介入を招く為、多くの揚北の国人領主達は反対の立場を採っています。この対立は伊達家家中まで発展し、「天文の乱」と呼ばれる大きな争いとなりました。
藤資は弟の景虎(後の上杉謙信)の擁立に尽力し、景虎が当主に就任すると、重臣の立場を確立し、景虎が出奔し高野山に入った際には、起請文と人質を差出、呼び戻す大功を挙げ、家中首座に格付けされています。
その後も跡を継いだ、中条景資も上杉家に忠誠を尽くし、中条景泰も天正6年に発生した御館の乱で勝利した上杉景勝方に味方した為、地位が保持されています。
天正10年の織田勢との魚津城攻防戦は壮絶を極め、3ヵ月に及ぶ籠城戦の末、景泰以下、多くの諸将が討死しています。
慶長3年、景勝が会津に移封になると、中条氏も従い、鮎貝城1万石が与えられ、当地を離れた為、江上館は廃城になったと思われます。江上館の跡地は現在でも土塁や堀等の遺構が残され貴重な事から名称「奧山荘城館遺跡」として国指定史跡に指定されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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