・須田城は永禄3年頃に須田相模満親が築いたと伝えられています。
須田家は信濃源氏の一族で「須田郷」を本貫とした事から地名に因み「須田」姓を掲げたとされます。満親の父親とされる須田満国は天正22年の武田信玄の信濃侵攻に敗北し上杉謙信を頼り越後国に落ち延び、以後、上杉家の家臣となっています。
永禄元年の謙信の命により満親が須田村の領主に抜擢、永禄3年に須田城が築かれ、その後は須田家の居城になったと思われます。
永禄4年に発生した第4次川中島合戦に従軍し、その後は加賀一向一揆衆との交渉役として活躍しました。
天正6年に謙信が死去すると、上杉景勝に仕え、越中国方向の総指揮官に抜擢される等重用され、松倉城や魚津城で指揮を執り佐々成政に対しています。
天正11年に羽柴秀吉との和睦が成立、成政が越中国一国が安堵された事で満親は魚津城を退去し、代わって信濃海津城に配されています。
満親は真田家との交渉役でもあり、第一次上田合戦では真田家を援護する為、上杉隊を指揮しています。天正16年には景勝に従って上洛、豊臣姓を下賜され、文禄3年時点では家臣ながら1万2千石を知行し、家中第二位の大身となっています。
須田城は嫡男の須田満胤が城主だったと思われますが、慶長3年に秀吉に命じられていた伏見城の普請弘治に不手際があったとして多くの大身家中と共に改易となっています。
その後は弟の須田大炊助長義が跡を継いだと見られ文禄元年当時の城主として長義の名が見られます。
慶長3年、長義は上杉景勝の会津移封に随行し、陸奥梁川城の城代2万石で配されている事から須田城は廃城になったと思われます。須田城の城跡は地蔵院の境内と宅地になっている為、目立った遺構は失われています。
新潟県:城郭・再生リスト
|