・蒲原津城は建武2年に南朝方に加担した小国政光が金鉢山に築城した中世の城郭です。
「色部家文書」の「秩父三郎軍忠状」によると南朝方の有力武将だった新田義貞に従った小国一族が、蒲原津に城を築いて籠城し、北朝方の足利氏に従った三浦系和田氏と松崎や沼垂で合戦に及んだ事が記されています。
「三浦和田軍忠状」によると、建武3年に北朝方が沼垂湊に入ると、渡河して小国一族を襲撃したと記されています。
蒲原津城は小国氏の他、池氏、河内氏、風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏等の南朝方に諸将が拠点として利用していましたが、次第に戦局が悪化し、暦応4年6月には落城しています。
同年9月に再度挙兵するも敗北し小国政光は討死したと見られ、以後、政光の名が資料で見られる事が無くなり、小国氏は天神山城に本拠地を遷しています。蒲原津城は北朝方の支配下に入ったと思われますが、程なく廃城になったと推定されています。
蒲原津城が築城された金鉢山の明確な位置は判りませんが、一説には柳戸大橋の下流域とも現在の万代島付近とも云われています。
金鉢山には青海の社(現在の蒲原神社)が鎮座していましたが、南朝方に与した事から北朝方が勝利すると社殿は破却、神官も追放されています。蒲原神社は戦国時代末期に新発田重家が再興したものの元禄元年に信濃川が氾濫し境内が荒廃、その後、現在地に移転した為、金鉢山の場所も不明瞭となっています。
蒲原津城の跡地は現在の金寶寺の境内付近とされますが、金鉢山と呼ばれるような標高は無く、城跡の遺構らしきものも残されていません。
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