・戦国時代の糸魚川地方の中心的な城郭は根知城でしたが、天正11年に上杉景勝が当時の城主だった西方房家に命じて糸魚川に新たな城郭の築城を命じました。
糸魚川に築かれた城郭の位置や規模等は不明ですが、一説には清崎城の事とも云われています。
西方房家は信濃小谷衆を従え、千国街道に備える等重きを成しましたが、天正12年に信州牧之島城に移封となり、代わって桜井三助晴吉が根知城に入っています。
晴吉は糸魚川の城に入っていない事から糸魚川の城は余り重要視されていなかった事が窺えます。
慶長3年に上杉景勝が会津に移封になると桜井氏も随行し当地を離れたと考えられます。
代わって、春日山城に堀秀治が入封すると根知城には堀備中守清重が配されています。
慶長5年に上杉遺民一揆が発生すると、清重も対応に追われ、根知城や城下町が大きな被害を受けた為、鎮圧後の慶長6年には糸魚川に清崎城を築き、本城を遷し、根知城を廃しています。
一方、当地が糸魚川の城だったとすると拡張、整備した事になります。
清長は社寺の保護を行い、慶長11年には千手院に寺領の加増を行い、同年には西海御前山の観音堂に黒駒の絵馬を奉納しています。
慶長15年、主家である堀家が御家騒動により改易になると清重も糸魚川から離れています。
代わって、当時の越後国の中心だった福島城には松平忠輝が入封し、清崎城には家臣である松平筑後守信宗が1万6千5百石で配されています。
元和2年、跡を継いだ松平信直の代に、従っていた松平忠輝が突如改易になった事から信直も糸魚川を離れています。
代わって、高田城には徳川四天王に数えられた酒井忠次の嫡男である酒井家次が10万石で入封し、糸魚川領は幕府の天領に組み込まれています。
元和5年に家次の跡を継いだ酒井忠勝が松代藩に移封になると松平忠昌が高田藩に入封し、清崎城には付家老だった稲葉正成が直領1万石に加え糸魚川領1万石が加増され、合計2万石で配されています。
元和9年に福井藩主松平忠直が幕府から不快を買い強制隠居させられると、寛永元年に実弟である忠昌が福井藩を継ぐ事となりますが、成政は従わず松平家から出奔、一時浪人となり、幕府から子の正勝の領内に蟄居を命じられています。
高田藩には福井藩主を強制隠居させられた忠直の嫡男である仙千代が26万石で入封し、清崎城には重臣である荻田長繁が1万4千石で配されています。
荻田本繁は藩の家老として重きを成したものの、藩を二分する派閥の長となり、家督争いの主導的立場となり、所謂、越後騒動を起し、それが原因で延宝8年に松平光長は改易、高田藩も廃藩となり、清崎城も廃城、本繁は八丈島に流罪となっています。
新潟県:城郭・再生リスト
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