・柿崎城が何時頃築城されたのかは不詳ですが、長く当地を支配した柿崎氏が居城として利用していました。
柿崎氏は米沢柿崎家系図によると、桓武平氏城氏一族である大見氏出身とされ、鎌倉時代にその一族が越後国蒲原郡白河庄安田郷が与えられ、その後、柿崎の地頭を兼任し、但馬守俊家の代に地名に因み「柿崎」姓を掲げたとされます。
柿崎氏は南北朝時代の動乱の際、北朝方に味方した為、南朝方の風間氏等から攻められ柿崎城し、当地から追われています。
文政元年に上杉家に従った同族とされる宇佐美氏と共に越後国に入り、柿崎の地頭職に復権しています。
当初は越後国守護上杉家に従っていましたが、天文年間に発生した上条上杉氏の乱の際、柿崎景家は守護代に長尾為景に味方し、功績を挙げて柿崎一族の惣領の地位を確立しています。
景家はその後、晴景、景虎(上杉謙信)に仕え、特に謙信時代には重用され、先手組300騎の大将に抜擢され、永禄元年には春日山城の留守居役を任命されています。
永禄4年の小田原攻めに従軍し、その直後に行われた謙信の鶴岡八幡宮参拝にも随行し、その警護に当たっています。
同年に行われた第四次川中島の戦いでは先鋒として妻女山を駆け降り武田軍本隊に突入し功績を挙げています。
景家は上杉二十五将に数えられる猛将でしたが、その後は内政や外交面で活躍し、最盛期には保倉川以北一円、3万貫の知行を安堵されていました。
天正2年に景家が病気で死去すると、次男の柿崎晴家が家督を継いだものの、天正6年に謙信の死去に伴う後継者争いである御館の乱で、敗北した上杉景虎方に与した事から、春日山城の城内で勝利した上杉景勝方に謀殺され没落したとされます。
しかし、同年、柿崎家家臣が景勝に忠誠を誓い晴家の遺児である千熊丸を擁立した為、家名存続が許されています。
これらの経緯は諸説有、景家や晴家が織田信長に内通し謀殺された説や御館の乱の際、持城の一つ猿毛城で家臣団が景虎派の晴家と景勝派の千熊丸に分かれて相争い、千熊丸方が勝利したとの説等があります。
天正12年、千熊丸が元服の折には景勝から「憲」の字を賜り憲家を名乗りました。
ただし、文禄3年時点で2千8百61石ろ祖父の景家の時代に比べると大きく知行地が少なくなっている事が窺えます。
さらに、慶長2年に直江兼続を総奉行とする伏見城舟入普請において不手際があったとして改易となり、上杉家から追放、これにより柿崎城は廃城になったと思われます。
現在、目立った遺構は失われましたが、景家の菩提寺である楞厳寺の山門は柿崎城の城門を居着くしたものと伝えられています。
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