・池ノ端城は天正9年に発生した新発田重家の乱の際、新発田家の居城である新発田城の支城の一つとして築城、又は拡張整備された中世の平城です。
天正10年、上杉景勝が新発田城に侵攻した際、小坂の陣で重家に従った高橋掃部介が討死すると、16歳という若年だった鴨之助が跡を継ぎ、池ノ端城の城主に抜擢されています。
鴨之助は地名に因み「池端」姓を掲げると天正11年に発生した放生橋合戦に従軍し、兜首と母袋武者2騎を討ち取る功績を挙げています。
天正15年に重家が自刃、新発田城は落城したものの、池ノ端城は健在で堅城を誇っていました。
鴨之助は戦局が不利になると、母親と妹を密かに城内から脱出させ、覚悟を決めていましたが、しかし、肝心の新発田城が落城し、これ以上籠城しても勝機が見いだせない事から、生き残った城兵30人を率いて城を囲っていた上杉の大軍を突破し戦場を離脱、多くが討ち取られ最後は7人だったとも云われています。
その後の経緯は不詳ですが、文禄3年に記録である「定納員数目録」によると色部同心の平林在番衆に「池端」の姓が見え、20石5斗、2人3分5厘役と記されている事から、平林城の城主色部長実に仕えていたと推察されます。
色部長実の奥方は新発田重家の妹だった事から、重家とは所謂「義兄弟」で当然、新発田家の内情は知っていたものの、反乱には加わらず、上杉景勝方に与していました。
その為、矢面に立たされたようで、最前線で乱の対処をさせられていました。
重家も長実の心情が判っていたようで、最後は乱平定の最大の功績を挙げさせる為、敢えて長実の陣に切り込み討ち取らせたとの逸話も残っています。
長実もその意気を感じ取り、残された新発田家一族や家臣等の多くを召し抱えたとされ、池端家もその中の1人だったのかも知れません。
池ノ端城は太田川と周囲の湿地帯を天然の外堀に見立てた中世の平城で、城域は東西約350m、南北約300m、主郭は東西約80m、南北約120m、周囲を水堀と土塁で囲っていました。
さらに、主郭周囲に外郭を設け北東の郭の東端には船着き場と思われる「舟戸」と呼ばれる所があり、湿地帯から近場の川(旧佐々木川)に通じる水路が確保されていたと考えられます。
池ノ端城は落城と共に廃城になったと思われますが、江戸時代には新発田藩主溝口家の分家となる池端溝口家が跡地の一角に陣屋を構えています。
現在でも随所に郭の形状と思われる地形や堀跡と思われる窪地が見られ、多くは田圃や畑として利用されています。
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