・琵琶島城が何時頃築城されたのかは判りませんが、南北朝時代に越後国守護職に就任した上杉憲顕が越後国に赴任した際、それに従った宇佐美氏によって築かれたと伝えられています。
別説として応安元年、又は天授6年/康暦2年に越後国守護職に就任した上杉房方が越後国入部した際、鎌倉公方足利氏満の命で宇佐美満秀の弟である祐益が随行し琵琶島に配されたのが始まりとも伝えられています。
上記のような経緯から宇佐美氏は越後国守護上杉家の有力被官として常に上杉方に味方し、特に忠誠心が高かったとされます。
永正の乱では宇佐美房忠が守護である上杉定実に従い、守護代の長尾為景と対立しましたが、永正11年に立て籠っていた小野城が攻められ落城すると岩手城での戦いでも敗北し討死しています。
越後国守護となった上杉定憲は、守護代の長尾為景を排斥する兵を挙げ、生き残った宇佐美一族もそれに与したと見られ、天正4年に為景方が琵琶城をせめるも、これを撃退しています。
天文5年に三分一原の戦いでは敗北したものの、宇佐美定満は為景を討死寸前まで追い込んだとされ、結果的に為景は隠居し、長尾晴景が跡を継いでいます。
長尾景虎(上杉謙信)が守護代になると、守護の上杉家が没落していた事もあり定満は景虎に従い、その後は軍師に抜擢され、多くの戦に従軍したとされます。
しかし、永禄7年に城戸城の城主である長尾政景と共に城戸城近くの野尻池で溺死しています。
死因については諸説有り、謀反の画策が露呈した事で、粛清されたとも、政敵から暗殺されたとも、政景を殺してから自ら命を絶ったとも、事故死とも云われています。
定満の死去により宇佐美氏は没落し、琵琶島城には城将として前島修理亮が配されています。
天正6年に上杉謙信が死去すると上杉景虎と上杉景勝との間に、その後継争いである「御館の乱」が発生、前島修理亮は景虎方に与しています。
琵琶島城は海上交通の要衝だった柏崎湊を管理下に置いていた事から前島亮は景虎が本拠地としていた御館に物資(兵站)輸送を試みたものの、景勝方の佐野清左衛門尉の妨害を受けた事で失敗に終り、琵琶島城も開城し降伏しています。
御館の乱が景勝方の勝利で終結すると景勝と同郷である上田衆出身で景勝に味方した桐沢但馬守具繁が琵琶島城に配されましたが、慶長3年に景勝が会津に移封となり、具繁も従った為、廃城となっています。
琵琶島に設けられた三之郭に鎮座している鵜川神社は延喜式神名帳に式内社として記載されている鵜川神社の論社で、由緒によると応安元年に宇佐美祐益が琵琶島城に入ると、境内が本丸から見て北東に位置する事から鬼門鎮守として歴代城主から崇敬庇護されています。
永禄7年に宇佐美駿河守定満が死去すると外護者を失い衰微しましたが、その後再興され、社宝として定満が愛用したと伝わる太刀を所有しています。
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