・小千谷陣屋は享保9年に会津藩の預所として整備された行政施設です。
江戸時代初期、当地は高田藩に属していましたが、天和元年に当時の藩主松平光長が越後騒動により改易になると、当地は幕府の直領である天領に組み込まれ、出雲崎代官所の支配下に入りました。
享保9年に魚沼郡の多くが会津藩の預地となり、中心的な役割を持った小千谷の地に陣屋が必要となりました。
宝暦5年に当地が再び幕府の直領になると代官所が設けられ、宝暦6年には十日町陣屋の出張陣屋となっています。
宝暦13年に再度魚沼分郡3万5千石が会津藩の預地に復しています。
慶応4年に幕府は出雲崎領も会津藩の預地にしたようですが、領民の反対により拒否され、そうこうしているうちに北越戦争の戦端が開かれています。
小千谷陣屋には会津藩兵250名と旧幕府兵で構成された衝鋒隊200名が集結し侵攻してくる新政府軍に備えています。
新政府軍は小出島方面と雪峠方面の2方向から侵攻してくると、当初は小千谷陣屋で迎え撃とうとしたものの、戦禍を嫌がる周辺住民達の懇願により当時の郡奉行である町野源之助は不利を承知で野戦を選択せざるを得ない状況に陥りました。
小出島には小出島陣屋にいた70名と小千谷陣屋からの援兵である井深宅右衛門隊120名、山之内大学小隊約50名、衝鋒隊10名が布陣、一方、新政府軍は500名だったとされます。
両軍によると佐梨川を挟んでの激しい銃撃戦が行われ、その後は抜刀による白兵戦で混戦となっています。
戦死者は会津軍15名、新政府軍16名と被害は粗互角だったものの、会津側の農兵が恐れを成して四散した為、戦線が維持出来なくなり、会津軍は敗北、六十里越から本領に撤退しています。
一方、雪峠の戦いも激戦で、当初は会津軍が有利な地形に陣取った為、優勢でしたが、兵力が3倍の新政府軍に押し切られ、小千谷陣屋に撤退、主力が小出島に出払っていた事から陣屋を守り切る事が出来ず片貝方面に撤退しています。
陣屋の屋敷内には正面に長屋門形式の表門をはじめ、桁行5間、梁間16間の政庁、役宅等の建物群で構成されており、嘉永7年に改築された際は領民からの多額の献金で工事費を賄っています。
解体された陣屋の表玄関は近くに境内を構えている五智院に移築され長く中玄関として利用されていましたが、老朽化により多くが解体され屋根部分が地蔵堂の屋根として再利用されています。
新潟県:城郭・再生リスト
|