・木場城は天正9年に山吉景長が築いたとされる中世の平城です。
山吉氏の出自について不明な部分が多く、平頼盛流池氏の康永の一族とも、三浦氏流多々良氏の後裔とも佐原氏の後裔とも云われています。
戦国時代になると上杉謙信に従い、山吉豊守は御奏者や外交面で活躍し上杉家家中筆頭の377名の軍役を担いました。
天正3年又は天正5年頃に豊守が死去すると嫡男の山吉盛信が継ぎましたが、その盛信も間もなく死去した事から、弟である景長が家督を継いでいます。
しかし、景長は若年だった為、領地は半減の上、本城だった三条城から当地に移封となり、新たに木場城を築く事となりました。
天正6年に上杉謙信が死去すると、後継者争いである御館の乱が勃発し、景長は勝利した上杉景勝に与した事から本領を安堵されたようです。
景勝は恩賞を近習に偏って与えた為、割を食った新発田重家が反乱を起し、景長は引き続き景勝方に与しています。
重家は要衝である新潟湊を掌握すると天正9年に新潟城を築き拠点とした為、近隣にあった木場城が景勝方の新潟城攻略の重要拠点となっています。
上杉家からは蓼沼友重が派遣され、木場城の本丸に布陣すると、景長は二之丸に入り新発田軍と対峙しました。
新潟湊周辺は信濃川と阿賀野川の河口に位置する物資輸送の要衝である一方で、標高が低く、両河川の度重なる氾濫等により湿地帯のような地形が広がっていた事から景長も度々新潟城や沼垂城を攻めたものの両陣営共に攻めあぐねていました。
しかし、天正15年に重家の後ろ盾になっていた織田信長が本能寺の変で死去した事で、戦局は上杉方に大きく傾きました。
景長も重家の兄弟である新発田駿河守盛喜を討ち取り、竹田輿介を生け捕る等の功績を挙げ、直江兼続から感状を賜っています。
慶長3年に景勝が会津に移封になると景長も従った為、木場城は廃城となっています。
代わって春日山城に入った堀氏は、新潟湊を改修整備した際、木場城の城跡に館を設け湊と工事の管理を行っています。
新潟県:城郭・再生リスト
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