・新津城が何時頃築かれたのかは判りませんが、金津保の地頭だった金津氏の一族である金津越前守信資が天福年間に当地に配され築城したのが始まりと推定されています。
信資は地名に因み「新津」姓を掲げ後裔は長く当地を支配しています。
一方、新津氏の氏神である堀出神社の由緒によると、天正元年に15代当主の新津丹波守勝資が新津城を築城したと記されています。
堀出神社は元々、新津城の鎮守社として開創されましたが、本家筋の金津氏が当地を去った為、祭神が新津城の城内に遷され、天正元年に勝資が現在の境内地に遷座し社殿を造営したそうです。
南北朝時代、新津上総介詮義は北朝の足利尊氏に属し、上野国の戦線に従軍し討死したとされます。
新津氏は永享11年に発生した「永享の乱」では越後国守護上杉房坊に与し、関東管領の上杉憲実救援の為に関東に出兵しています。
戦国時代に入ると上杉謙信に従い、新津勝邦は同じく上杉家の家臣山吉政久の子供、勝資を婿養子に迎えています。勝資は第四次川中島合戦をはじめ、新発田重家の乱、小田原の役、朝鮮出兵等に従軍して功績を挙げ上杉二十五将に数えられています。文禄2年に勝資料は婿養子である新津秀祐に家督を譲り隠居しています。
慶長3年に上杉景勝が会津にいづうになると秀祐はそれに同行し、二本松城主となった安田能元の同心衆として2千石が安堵されています。
新津城はその後利用された形跡がない為、秀祐の移封後は廃城になったと推定されています。
新津城は90m四方の単郭の平城で周囲を土塁と堀で囲っていたと推定されています。廃城になった後は捨て置かれたようで、長く曲輪が若干の高地で、周囲の堀は深田、土塁の一部も残っていたとされます。現在は目立った遺構は消滅していますが自動車学校の北側が城跡とされ、西側の側溝が堀として利用されていたようです。
新潟県:城郭・再生リスト
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