・当地は江戸時代初期以降、高田藩領でしたが、延宝8年に高田藩主である松平光長が改易処分となり、高田藩は廃藩、延宝9年以降は天領となっています。
寛保2年、旧高田藩領で頸城郡内にある87ヶ村大凡5万石支配の為に川浦代官所が設けられています。
川浦代官所では初代萩原藤十郎から36代大草太郎左衛門まで116年間存続し、越後国にあった天領の一部を支配しました。
文政3年に当地が高田藩領に組み込まれると代官所は一時廃止となりましたが、天保2年に脇野町代官所の出張所として再興されています。
文政14年に独立した代官所に復したものの、慶応元年には出雲崎代官所の出張所となりましたが、慶応4年に支配下の3万7千石が高田藩の預かり地となっています。
戊辰戦争が勃発すると旧幕府軍の衝鉾隊が占拠し活動の拠点として利用したものの、新政府軍に恭順していた高田藩から襲撃を受け焼失しています。
明治元年に代官所はそのまま廃されましたが、焼け残った施設も一部あったようで、門の一つが近隣に境内を構えている善巧寺に、建物が上越市内の浄雲寺と蓮花寺に移築されています。
川浦代官所は6反5畝の規模で、周囲を高さ1.5m幅2mの土塁と幅約1.5mの堀で囲い敷地内には代官の邸宅と役所、属吏の長屋、馬屋、勘定所、評定所、便所、稲荷神社等が整備されていました。
稲荷神社は天明8年に当時の代官である竹垣三右衛門直照が代官所の守護神として開創した神社で、現在も当時と同じ場所に鎮座しています。
現在は目立った遺構は残されていませんが、貴重な事から名称「川浦代官所跡」として上越市指定史跡に指定されています。
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