溝口勝政:概要

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概要・歴史・観光・見所
宇佐美定満(雲洞庵)

【 概 要 】−溝口家は甲斐源氏武田氏の庶流で逸見又太郎義重を祖とし、承久の乱(承久3年:1221年)の戦功により美濃国山県郡大桑領が与えられました。応永年間(1394〜1428年)に尾張国中島郡溝口に移り地名から溝口氏を名乗り、戦国時代には溝口勝政(逸見彦左衛門尉勝政)を輩出し西溝口城を築城しています。

溝口勝政の詳細は不詳ですが尾張国中島郡溝口を領する小領主とされ、一族と思われる溝口富之助は溝口城を居城として織田信長に従い織田家の内紛の調停や信長の躍進に貢献し子供である秀勝が幼少の頃から丹羽長秀に仕えている事から織田家かその家臣に与していたと思われます。

天正3年(1575)に託明寺が勝政の菩提寺となっている事から天正3年前後に勝政は死去したと思われます。託明寺は跡を継いだ溝口秀勝に随行し慶長3年(1598)に新発田城下である現在地に移り、以後、溝口家縁の寺院として歴代新発田藩主から庇護されています。

新江山堅固院託明寺は新潟県新発田市中央町二丁目に境内を構えている浄土真宗大谷派の寺院です。託明寺の創建は鎌倉時代初期に祐玄房(斎藤別当実盛の2男)によって開かれたと伝えられています。

当初は越前国坂北郡新江に境内を構え専光寺と号する法相宗の寺院でしたが承元元年(1207)、祐玄房が親鸞聖人に帰依し直弟子になった事から浄土宗に改宗しています。その後、尾張国中島郡溝口に遷り、天正3年(1575)に領主だった溝口勝政の菩提寺となっています。

天正10年(1582)に溝口秀勝は加賀国江沼郡大聖寺城(現石川県加賀市大聖寺町)に慶長3年(1598)に越後国蒲原郡新発田城(現新潟県新発田市)に移封となり託明寺も随行したと思われます。江戸時代は新発田藩内の浄土真宗寺院の僧録所として大きな影響力がありました。託明寺の寺宝として新発田藩歴代藩主肖像画(13枚)を所有し新発田市指定文化財に指定されています。山号:新江山。院号:堅固院。宗派:浄土真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。



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