【 概 要 】−堀直吉は寛永14年(1637)に安田藩(村松藩)3万石の初代藩主堀直時の子供として生まれました。寛永20年(1643)、直時の死去に伴い堀家の家督を継ぎ安田藩(村松藩)2代藩主に就任しています。寛永19年(1642)、村上藩の藩主で本家筋の堀家が無嗣断絶し村上藩が廃藩となった為、近隣にあり分家筋の堀直吉が寛永20年(1643)から寛永21年(1644)にかけて村上城の城番を担っています。
寛永22年(1644)に本拠を安田城(新潟県阿賀野市安田町)から村松に遷し、事実上の村松藩が立藩しています。堀直吉は本拠となる村松陣屋(後の村松城)を築城し城下町の町割りや領内総検地の実施、領内整備などに尽力しました。万治元年(1658)から万治2年(1659)と延宝2年(1674)から延宝3年(1675)には大坂加番を命じられ、3万石の小藩にとってはかなりの負担だったようです。延宝4年(1676)死去、享年40歳、戒名:出障院殿観雪芳空大居士。
堀直吉は社寺の保護も行い、正保2年(1645)に村上から堀家の菩提寺である英林寺を呼び寄せ寺地を寄進(本家の堀家が没落した為、村松堀家を頼ったと思われます)、同年に清水寺(新潟県五泉市)に寺地を寄進し現在地に移転、同年に安養寺に寺地を寄進し現在地に移転、同年に住吉神社(村松五社)に堀家を宗霊を勧請合祀し、同年には愛宕神社を村松城の鬼門鎮守として崇敬し社殿を造営、寛文2年(1662)に東山(太子山)に遷座、明暦2年(1656)に神明宮(村松五社)の社殿を造営、寛文元年(1661)には矢津八幡宮(村松五社)の社殿(本殿は新潟県指定文化財)を造営しています。
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