【 概 要 】−顕窓慶字についての詳細は少なく出生や生年月日などは良く判りませんでした。一般的には幼少時から耕雲寺の傑堂能勝の元で出家し京都南禅寺の義堂周信に師事した事が知られています。傑堂能勝は越後国北部の土豪(国人領主)から支援を受けていた事や南朝の有力武将だった楠家の一族だったと目されている事から、顕窓慶字は南朝方で周辺を領していた土豪(国人領主)の子弟だったとも考えられます。
又、傑堂能勝が耕雲寺を開いたのが応永元年(1394)、顕窓慶字が神戸山城主神戸太郎最重に招かれ慈光寺(新潟県五泉市)を開いたのが応永10年(1403)とされる為、10代後半から20代前半頃に得度し慈光寺を開いた事になります。
顕窓慶字の実績は少なく秋田県羽後町西馬音内に境内を構えている西蔵寺などに限られています。西蔵寺の由緒では応永元年(1394)、又は応永8年(1401)以前に顕窓慶字によって開創された事になっていますが、これだと慈光寺を開いた年代よりさらに若い時期にあたる為、傑堂能勝が越前竜沢寺の梅山聞本の下で修行している時期から師事し、その後、京都南禅寺で修行を行い、耕雲寺開山後に傑堂能勝に呼ばれて越後国入りしたとも考えられます。
そして応永27年(1420)に関東管領の上杉憲実に招かれ雲洞庵を曹洞宗の寺院として中興開山しています。応永34年(1427)に傑堂能勝が死去すると顕窓慶字が跡を継ぎ耕雲寺に戻ったようですが、この頃、外護者だった本庄氏の混乱により耕雲寺の寺領が民衆から搾取されかなり荒廃したようです。これにより、法弟の南英謙窓(種月寺を開山)が修行先である備前国(現在の岡山県)から耕雲寺に戻り永享2年(1430)には寺領の半分が回復、顕窓慶字は慈光寺の住持になったようです。永享5年(1433)1月22日死去。
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