【 概 要 】−溝口直治は宝永4年(1707)に新発田藩5代藩主溝口重元と角(山崎定右衛門の娘)との子供として生まれました。享保元年(1716)8代将軍徳川吉宗に御目見し、享保3年(1718)重元の死去に伴い溝口家の家督を継ぎ、新発田藩6代藩主に就任、享保4年(1719)に従五位下に叙任、信濃守に任命されています。一方、江戸藩邸を火事で焼失し、新発田城も城下の火事に類焼し大きな被害を受け、洪水なども重なり財政が逼迫しました。享保5年(1720)には財政難から家臣の俸禄を借り上げや解雇、商人からの献金、質素倹約を徹底しています。
享保11年(1726)には諏訪神社の例祭を盛り上げる為「人形屋台」を出す事を勧めた事が「しばた台輪」の起源の起源となっています。同年には新潟湊と沼垂湊が諸国の商船の出入りと税金について争いが発生、幕府の裁定により新発田藩が管理する沼垂湊が全面敗訴となり沼垂湊は急速に衰退しました。新田開発も積極的に行い享保15年(1730)には松ケ崎分水路を開削し紫雲寺潟、福島潟を干拓、これにより広大な水田が開発されました(松ケ崎分水路により阿賀野川が直接日本海に注ぐ事になり水害軽減に大きな役割を果たしました)。享保17年(1732)死去、享年26歳、戒名:大機院殿前信州大守天真全用大居士。家督は溝口直温が継いでいます。
溝口直治は社寺の保護も行い、享保10年(1725)には領内巡視の際に柄目木八幡宮を参拝、享保12年(1727)に加治川等の改修工事を行った際、厳島神社(新潟県北蒲原郡聖籠町蓮野)の社殿を造営、溝口家の菩提寺である宝光寺には墓碑が建立されています。
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