直江家:概要

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概要・歴史・観光・見所
直江家(徳昌寺)

【 概 要 】−直江家の祖先は不詳ですが藤原麻呂の後裔とされ、越後国中頚城郡直江に土着した際、地名から直江氏を称したそうです。資料的な初見は直江酒椿(親綱)からで当初は与板城(長野県長岡市与板町)の城主である飯沼氏に仕えていましたが、永正11年(1514)に飯沼氏が滅ぶと長尾家の被官になったようです。跡を継いだ景綱は与板城を居城とし長尾為景・晴景・景虎(上杉謙信)の3代に仕え、特に景虎(謙信)と兄である晴景との権力闘争で景虎に与し勝利に導いた為、信任を得、景虎出奔中は奉行職など要職を歴任、景虎復帰後は領内の中枢を担い七手組大将(直江大和守実綱・長尾遠江守藤景・本庄美作守慶秀・北条丹後守高広・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・中条越前守藤資)の一人として数えられました。

謙信(景虎)に従い度々関東や信州の川中島にも従軍し、軍役は家中第2位の規模を誇り軍事的にも大きな役割を担い、石動山城など敵地の最前線に配置されました。養子として跡を継いだ信綱(長尾景秀の次男)は天正6年(1578)、謙信の後継者争いである御館の乱で景勝方に与した事で引き続き上杉家の中枢に留まりました。

しかし、御館の乱の論功行賞では譜代家臣に大きく偏り、味方になったものの外様である国人領主には殆ど与えられなかった事で反感を買い天正9年(1581)には国人領主の1人毛利秀広により信綱が殺害されるという事件が起きました。景勝は大身である直江家を取り込むように画策し、信綱の嫡子である清融(後に高野山龍光院の住職)を排斥させ、自らの側近である樋口兼続(樋口惣右衛門兼豊の長男)を信綱の未亡人となった船(直江景綱の娘)と再婚させ直江家の名跡を継がせました。

この事により兼続は直江家と樋口家の家中を纏める一大勢力となり、後には上杉家の執政として内政、外交、軍事と一手に任されるようになり、景勝を「御屋形様」というのに対し、兼続を「旦那様」と敬称し、豊臣秀吉からは「天下の政治を安心して預けられる」と評されています。

直江家の菩提寺は与板城下に境内を構える徳昌寺(長岡市)ですが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津領120万石で移封になるとその内の米沢領30万石(実石は6万石程度、その他は兼続の家臣達に分配)が兼続に与えられ、米沢城の城下にも徳昌寺が創建されています。慶長5年(1600)には徳川家康の事実上の宣戦布告とも言われる「直江状」を発端にして関が原の戦いが開始され、上杉家は降伏し米沢30万石に大減俸となっています。

兼続に嫡子がいなかった事から、元和5年(1619)に兼続、寛永14年(1637)に船が亡くなると直江家は断絶、菩提は共に米沢の徳昌寺に葬られたものの、反直江派の台頭により上杉家の衰退は直江兼続の寄る所が大きいとして奸臣扱いされ、反直江派が主導する林泉寺(米沢市)から攻撃を受けた徳昌寺は破却、廃寺と追い込まれます。

実際、曹洞宗の僧録所争いもあったようで伊達家の祈願所として隆盛していた瑞龍院も衰退させています。兼続と船の位牌は与板の徳昌寺(又は東源寺)に移され、墓碑と遺骨は真福寺に改葬されましたが再び林泉寺からの圧力がかかり林泉寺に再改葬されました。ただし、いやがらせの要素が強く、林泉寺では9代藩主上杉鷹山が兼続の名誉を回復させるまでは法要を行わず、戒名にも大身が用いる「院殿」を避けていました。代りに直江派は兼続の母方の菩提寺である東源寺を米沢にも創建し法要を続けていました。

徳昌寺:写真
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