沢海藩溝口政勝・政良:概要

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概要・歴史・観光・見所
沢海藩溝口政勝・政良(大栄寺)

【 概 要 】−沢海藩の初代藩主となった溝口善勝は新発田藩初代藩主となった溝口秀勝の2男として生まれ、慶長6年(1601)には5千石が与えられ宗家溝口家の別家を成立させました。その後は徳川家康、秀忠に仕え慶長14年(1609)には上野国甘楽郡内に2千石が加増されます。慶長15年(1610)に秀勝が死去すると当初与えられた5千石が還付されましたが、秀忠の後押しもあり改めて1万2千石分が分知され、合計1万4千石を持って沢海藩を立藩しています。

2代溝口政勝は弟である助勝に3千石、直勝に1千石を分知し1万石となり、慶安元年(1648)には陣屋町に鎮座している沢海日枝神社の社殿を再建しています。寛文10年(1670)に死去、享年63歳、戒名「恵観浄智清香院」、亡骸は溝口家の菩提寺である大栄寺(新潟市)に葬られています。

3代溝口政良は主に新田開発に尽力し善政を行ったとされる人物、寛文10年(1670)に死去、戒名「雄巌俊英涼雲院」、亡骸は父親と同じ大栄寺に葬られています。又、政良には嫡男である政武(金十郎)がいましたが早世した為、同じく亡骸は大栄寺に葬られています。

4代藩主は近江水口藩主加藤明友の2男政親(政良の側室として加藤明成の娘を迎えていた為、義理の甥にあたる人物、幼名:采女)を迎え溝口家を継ぎましたが、家臣達の騒動、又は藩主である政親の酒狂により貞享3年(1686)に改易となり沢海藩は廃藩、政親は実家である加藤明英(明友の子)に預けられました。

菩提寺は滋賀県甲賀市水口町水口森の蓮華寺。騒動の理由には諸説ありますが、政親は実家である水口藩から派遣された佐川左内と共に遊興にふけり過ぎ藩政に支障をきたした為、その他の家臣達は藩主交代を画策し佐川左内を殺害し、政親を押し込め軟禁しました。事の事情を知った実家の加藤明英は沢海藩の領地返上を幕府に嘆願し、幕府もこれを認めた事で沢海藩の廃藩が決定したとされます。

大栄寺は寛永8年(1631)に伊藤左五右ェ門が笑山全悦和尚を(観音寺11世)を招いて近隣しあった満光寺、極楽寺、得船寺の3箇寺を合併して創建(得船寺を源流とすれば中興開山)した曹洞宗寺院で、沢海藩が廃藩になった後も伊藤家の尽力などもあり引き続き寺運が隆盛し数多くの名僧を輩出しています。大栄寺境内には数多くの由緒ある建物の中に政勝・政良・政武の墓碑(五輪塔)が建立されています。

大栄寺:写真
溝口政勝・政良と縁がある大栄寺境内に咲き誇る桜越に見える山門 溝口政勝・政良と縁がある大栄寺参道石畳みから見た本堂正面の画像 溝口政勝・政良と縁がある大栄寺境内に設けられた僧堂 溝口政勝・政良と縁がある大栄寺回廊越に見える鐘楼



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