【 概 要 】−今井源右衛門国広は越後妻有地方の土豪下平修理亮秀広の嫡男として生まれました。父親である秀広(吉長)は弘治2年(1156)に上野家成との領地争いから上杉家中を巻き込む騒動に発展し、それに嫌気を感じた長尾影虎(上杉謙信)が高野山に出奔する事件の当事者で、永禄4年(1561)には上杉謙信の命により野尻湖で長尾政景(上田長尾氏の当主。越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。当時は謙信と同格で実力伯仲とも云われた。)に暗殺を謀り両者共に溺死したとされる人物(事故説、宇佐美定満説など諸説有り)とも云われています。
この事件後に領地が召し上げられますが、跡を継いだ国広は下平姓から今井姓に改姓し謙信の旗本になると、父親の領地だった越後妻有地方の領主に復権し上郷城や千手城の城主として長福寺に寺領の寄進を行っています。天正6年(1578)謙信の死によって2人の養子が跡継ぎを争った「御館の乱」では一族である多くの下平家は影虎(北条氏康の子供)に与する中、国広は景勝(謙信の甥、伝承が正しければ国広は親の敵の子供になるが?)に与し大功を挙げ感状を賜っています。
御館の乱の恩賞を巡る「新発田重家の乱」では最前線となる笹岡城(阿賀野市)の城主に抜擢され、何度も拠点として利用され先鋒としても活躍しています。墓碑は笹岡城の三之郭、城主の居館跡と推定される場所で鑑洞寺(阿賀野市)が菩提寺かは不詳ですが再興後は墓守として手厚く供養されたと思われます。戒名「瑞林院殿玉鳳鸞祥大居士」、また隣には今井国広の家臣と思われる星野藤左衛門「戒名:誠忠院峻山義英居士」の墓碑も建立されています。
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