堀直央:概要

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概要・歴史・観光・見所
堀直央(日枝神社)

【 概 要 】−堀直央は寛政9年(1797)に村松藩7代藩主堀直方の子供として生まれました。文政2年(1819)に8代藩主で兄である堀直庸の死去に伴い堀家の家督を継ぎ村松藩9代藩主に就任しています。文政11年(1828)に発生した三条地震(推定マグニチュード6.9、震源地周辺最大震度7)では大きな被害を受け藩庁の置かれた村松城の城下は限定的でしたが、領内では倒壊した家屋は1千軒以上、数百人の死者を出しています。

寛永元年(1848)に外国人が無許可で粟島を測量した事が大きな問題となり、嘉永5年(1852)にペリーが浦賀沖に来航すると幕府から全国の諸大名に海防の警備が命じられ、村松藩では村松浜や葛塚浜、新潟港の警備を行っています。安政2年(1855)に発生した安政大地震では村松藩江戸藩邸が倒壊し正室も圧死、藩邸を再建すると共に、同じく大きな被害を受けた堀家縁の上野大仏を新鋳再建し大きな負担となっています。

堀直央は藩政改革にも尽力し、文武奨励や専売制導入、流通整備などを行い官営殖産興業の発展にも力を入れています。特に「見附結城」が著名で文政10年(1827)に下野足利(栃木県足利市)から高機の織子を見附(現在の見附市)に招き、さらに、染色職人を結城(茨城県結城市)から雇い見附独自の木綿織りが作り出されました。

堀直央は社寺の保護も行い、天保9年(1838)には神明宮(新潟県五泉市:村松五社)の御神像修復の大旦那となり、弘化2年(1845)には日枝神社(新潟県五泉市:村松五社)に現在地に社地を寄進し、社殿を造営した後に遷宮しています。嘉永3年(1850)に城主格に格上げされた事を受け、村松陣屋を村松城にするべく修築が行われています。安政4年(1857)隠居、文久元年(1861)死去、享年64歳、直央神社(新潟県五泉市)の境内には堀直央の墓碑が建立され住吉神社には御神像として祭られています。

住吉神社:写真
堀直央と縁がある住吉神社 堀直央と縁がある住吉神社 堀直央と縁がある住吉神社 堀直央と縁がある住吉神社
神明宮:写真
堀直央と縁がある神明宮 堀直央と縁がある神明宮 堀直央と縁がある神明宮 堀直央と縁がある神明宮
日枝神社:写真
堀直央と縁がある日枝神社 堀直央と縁がある日枝神社 堀直央と縁がある日枝神社 堀直央と縁がある日枝神社
村松城:写真
堀直央と縁がある村松城 堀直央と縁がある村松城 堀直央と縁がある村松城 堀直央と縁がある村松城



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