牧野忠訓・忠毅:概要

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概要・歴史・観光・見所
牧野忠訓・忠毅(栄凉寺)

【 概 要 】栄凉寺(長岡市)の創建は牧野氏が三河国牛久保城主の時代の永禄年間(1558〜1570)牧野成定によって開かれたのが始まりとされます。当初は光輝庵と称していましたが、元和4年(1618)に牧野忠成長岡藩(藩庁:長岡城)に入封すると、元和5年(1619)に現在地に移され、開基者で忠成の祖父である成定の戒名「養修院殿教誉皎月光輝大居士」と父親である康成の戒名「月照院殿前典厩応誉感称徳大居士」、生母の戒名「鳳樹院殿暁月心大姉」から「光照山月照院栄涼寺」と改称しました。その後は牧野家の香華院として庇護され本妙寺、長興寺と共に家老格を与えられ、領内の寺院に大きな影響力がありました。幕末になると12代藩主忠訓と13代藩主忠毅が葬られ名実共に牧野家の菩提寺となりました。

牧野忠訓は丹後宮津藩主・松平宗秀の4男でしたが11代藩主忠恭の養子となり慶応3年(1867)忠恭の隠居に伴い12代藩主に就任しています。翌慶応4年(1868)には戊辰戦争が勃発し当初は中立を目論んでしましたが、家老である河井継之助と新政府軍監の岩村精一郎との会談が決裂し北越戦争が開始されると奥羽越列藩同盟に参加、領内は戦禍にまみれ善戦するも降伏し、忠訓は謹慎処分、長岡藩も一時廃藩となります。

その後、忠訓は強制隠居となり忠訓の4男忠毅が13代藩主として認められ僅か2万4千石ながら長岡藩が復活します。牧野家は初代忠成は普済寺(長岡市)、2代(忠盛)から11代忠恭は東京都三田の済海寺、3代忠辰が東京都大田区池上本門寺が菩提寺でしたが済海寺の境内整備に伴い、歴代の墓碑が蒼柴神社の境内に移され(3代忠辰の墓碑も池上本門寺から移設)、遺骨は栄凉寺に納骨され(3代忠辰のみ蒼柴神社に納骨※蒼柴神社は祭神として忠辰が祀られている)、境内には牧野家歴代墓が建立されました。

栄凉寺:写真
牧野忠訓・忠毅と縁がある栄涼寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある栄涼寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある栄涼寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある栄涼寺
蒼柴神社:写真
牧野忠訓・忠毅と縁がある蒼柴神社 牧野忠訓・忠毅と縁がある蒼柴神社 牧野忠訓・忠毅と縁がある蒼柴神社 牧野忠訓・忠毅と縁がある蒼柴神社
普済寺:写真
牧野忠訓・忠毅と縁がある普済寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある普済寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある普済寺 牧野忠訓・忠毅と縁がある普済寺



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