宇佐美定満:概要

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概要・歴史・観光・見所
宇佐美定満(雲洞庵)

【 概 要 】雲洞庵上杉謙信公の軍師である宇佐美定満の菩提寺とも云われ、本堂(新潟県重要文化財)背後には宇佐美定満の墓碑が建立されています(現在の墓碑は越後国魚沼郡の塩沢出身で江戸時代後期に「北越雪譜」を編纂した鈴木牧之が建立したとものとされます)。宇佐美定満は長尾晴景、と上杉謙信の2代に仕え、上杉二十五将、上杉四天王、越後十七将に数えられる名将で、天文19年(1550)に長尾家の一族で反対勢力だった坂戸城の城主長尾政景を倒し、永禄5年(1562)に武蔵上尾原での北条氏との戦で討死、又は永禄7年(1564)に坂戸城の近くにある野尻湖(長野県上水内郡信濃町野尻)で長尾政景(板戸城の城主、上杉景勝の実父)を暗殺し、自分も溺死したと伝えられています。宇佐美定満の墓碑は雲洞庵(雲洞庵は宇佐美定満の鎧櫃を所有しています)、野尻湖の琵琶島に境内を構える宇賀神社には供養塔が建立されています。

宇佐美定満については一次資料が極端に少ない為、具体的にどの様な実績を上げたのかは不詳。一般的に映画やドラマで上杉謙信の側近で軍師として数多くの戦場に参陣し大きな功績を挙げた人物像は江戸時代に編纂された「軍記物」に大きく影響され事実とは大きく異なるとされます。その発端になったのは宇佐美家の後裔を自称した宇佐美定祐が編纂した「北越軍記」で宇佐美定満をモデルとしたと思われる「宇佐美駿河守定行」が大きく取り上げられています。

定祐は紀州藩徳川家に仕える身で、宇佐美家が断絶し家譜を伝える人物が居ない事を利用し、架空の先祖を作り上げ自分を高く評価させようと仕組んだものと考えられています。紀州藩徳川家も定祐が吹聴する越後流軍学を利用したと見られ、胡散臭さがあるものの事実上容認した事から、「北越軍記」にある意味お墨付きが与えられた事で、これ以降に編纂された軍記物は宇佐美定満(定行)=上杉謙信の側近で軍師、という印象が決定付づけられました。さらに困った事に、寛文9年(1669)に米沢藩が幕府に提出した正式な公文書である「上杉将士書上」も「北越軍記」の影響をもろに受け、宇佐美定満の架空な業績だけでなく架空な武将と思われる人物も列記されています。

小早川能久が編纂した「翁物語後集」によると宇佐美定祐の父親である宇佐美造酒助勝興は稲垣重綱に仕えた料理人の子供で、「甲陽軍鑑」の副本を無断で制作しそれを持ち出し出奔、その後も素行が悪かったようです。水戸藩に仕官の際に勝興から素性を聞かされ、水戸藩は上杉家に旧臣だった畠山義春に問い合わせると宇佐美定満に子供が居ない事を明確に覚えていた為即座に断られたとも云われています。江戸時代には偽造家系図を作る職人が数多くいた事から勝興、定祐父子は宇佐美家の架空な家系図や実力者からの感状などを創作し紀州藩徳川家に入り込んだのかも知れません。

今では宇佐美定満が「琵琶島殿」と呼ばれていたかどうかも諸説あり、「琵琶島殿」でなかったら琵琶島城の城主でもなかった可能性もあります。

雲洞庵:写真
宇佐美定満と縁がある雲洞庵赤門の正面全景。重厚な山門は歴史が感じられます。 宇佐美定満と縁がある雲洞庵赤門の斜め前方。四脚門に翼廊が備わっています。 宇佐美定満と縁がある雲洞庵赤門からの参道の景観。古刹の雰囲気が満点です。 宇佐美定満と縁がある雲洞庵本堂の正面全景とその前に置かれた大香炉



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