【 概 要 】−内藤弌信は万治元年(1658)、内藤信光の子供として生まれました。延宝元年(1673)に棚倉藩(福島県棚倉町)の藩主内藤信良の養子になると、従五位下、紀伊守に叙され、延宝2年(1674)に信良の隠居に伴い内藤家の家督を継ぎ棚倉藩5万石の藩主に就任しています。宝永2年(1705)に田中藩(現在の静岡県藤枝市)に移封となり、正徳2年(1712)には大坂城代として大坂に赴任、同年には四位下、豊前守に叙されています。
享保3年(1718)に大坂城代を免職すると大坂城下に仮住まいしましたが享保5年(1720)に村上藩(新潟県村上市)に移封となっています。大坂城代罷免については、8代将軍徳川吉宗に謁見した際に、大坂城の縄張りについて質問されたところ明確に答える事が出来なかったとも云われ、新たに居城となった村上城も特に拡張や改変を加える事が無かった事から特に城郭については興味が無いのかも知れません。享保10年(1725)隠居、享保5年(1730)死去、享年73歳、戒名:徳林院檀誉超岳、内藤家の菩提寺である光徳寺に墓碑が建立されています。
内藤弌信の村上藩の実績としては、享保6年(1721)に株仲間を公認し、城下である久保田町が火元となって120軒の家屋が焼失する大火が発生すると、町名を久保多町に改めています。享保8年(1723)には足高の制を制定し現役の役職に合わせて俸禄が増減する制度を確立しています。又、内藤家の菩提寺である光徳寺(新潟県村上市)に寺地と寺領100石を寄進、享保2年(1717)には内藤家の祖である内藤信成の御霊を祭る聖廟(後の藤基神社)を江戸内藤邸に造営しています。
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