間部詮房:概要

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概要・歴史・観光・見所
間部詮房(浄念寺)

【 概 要 】−間部詮房は寛文6年(1666)、当時の甲府藩主徳川綱豊(3代将軍徳川家光の3男)の家臣西田喜兵衛清貞の長男として生まれました(西田喜兵衛清貞も猿楽師だったとも云われています)。当初は猿楽師(能楽師)喜多七太夫の弟子として猿楽師を目指していましたが、貞享元年(1684)から綱豊の小姓として仕え命により間部氏を称するようになります。

宝永元年(1704)に綱豊が江戸城に移った事に随行し1千5百石となり宝永3年(1706)には若年寄格として1万石に加増され諸侯に列しました。綱重の長男・綱豊が5代将軍徳川綱吉の養子となり6代将軍家宣に就任すると、側用人ながら老中格、高崎藩(群馬県高崎市)5万石の藩主となり新井白石と共に幕政で大きな役割を担い、所謂、「側用人政治」、「正徳の治」と呼ばれる政治体制を確立しました。

正徳2年(1712)に家宣が死去し、幼少である家継を将軍に就かせましたが、その家継も正徳6年(1716)に死去した為、詮房の権威は失墜、8代将軍徳川吉宗からは事実上幕政から排斥され享保2年(1717)には領地も要地である高崎藩(群馬県高崎市)から、越後の村上藩(新潟県村上市)に移封となりました。

間部詮房は享保5年(1720)に村上城(村上市)で死去、享年55歳、戒名「亨浄院殿柔誉軟心煥霊大居士」、遺骸は菩提寺である浄念寺(村上市)に葬られ境内には墓碑と御霊屋が設けられました。猿楽師から幕府の中枢として幕政を仕切り、5万石が与えられた例は間部詮房が唯一で異例な出世を遂げた人物です。

その為、政敵も多く綱豊との衆道疑惑や家宣との衆道疑惑、家宣側室月光院との不義密通疑惑などを流布されを「河原乞食の子(猿楽師とは現在でいう大道芸人で当時の身分としては最下層で河原乞食などと呼ばれていました)」と蔑まれています。

さらに、江島生島事件を画策され後ろ盾だった月光院の大奥での権威が失墜し詮房にも暗い影を落すようになりました。浄念寺境内には間部詮房の御霊屋や墓碑が残され村上市指定文化財に指定されています。

浄念寺:写真
間部詮房と縁がある浄念寺 間部詮房と縁がある浄念寺 間部詮房と縁がある浄念寺 間部詮房と縁がある浄念寺
村上城:写真
間部詮房と縁がある村上城 間部詮房と縁がある村上城 間部詮房と縁がある村上城 間部詮房と縁がある村上城



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