竹俣家:概要

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概要・歴史・観光・見所
竹俣家(宝積寺)

【 概 要 】−竹俣家は源頼朝の側近で幕府御家人だった佐々木盛綱を祖とする加地家の庶流で、応永20年(1413)、加地季綱(盛綱の孫の倉田義綱の5代後裔)の居城(北楯館)に二俣の竹があり、新たに築城した城(竹俣館)にも同じく二俣の竹があった為、吉兆と悟り竹俣氏を称しました。中世は独立した国人領主として「揚北衆」などと呼ばれ、永正4年(1507)の「永正の乱」では当時の当主、竹俣清綱が越後守護職上杉房能に与し敗退、享禄3年(1530)の「上条の乱」では守護代長尾為景(上杉謙信の父親)に与しています。

為綱の跡を継いだ慶綱は上杉謙信の側近の1人として七手組(七人衆:上条政繁・北条景広・柿崎景家・斎藤朝信・山本寺定長・本荘繁長・竹俣慶綱)に任ぜられ、関東や信州の川中島などにも従軍し数々の戦功を挙げ上杉二十五将の一人に数えられました。

天正6年(1578)に謙信が死去すると上杉家で「御館の乱」と呼ばれる相続争いが起き、慶綱は景勝方に与しました。天正10年(1582)、織田信長軍との戦いである魚津城攻防戦では守将として挑みましたが魚津城(富山県魚津市)は落城し慶綱は自刃しています。文禄2年(1593)、幼少である勝綱が亡くなると利綱(出生不詳、慶綱の兄弟とも長尾家出身とも)が名跡を継ぎ、慶長3年(1598)に景勝の会津(福島県会津若松市)移封に随行しています。

宝積寺(新発田市)は越後時代の竹俣家の菩提寺とされ(文明2年:1470年に耕雲寺5世徳嶽宗欽を招いて菩提寺として整備)、境内は元々竹俣家の居館(宝積寺館)で、本拠を岡塚館に移した後に宝積寺が移されたと推定されています。宝積寺境内には歴代の供養塔と伝わる宝篋印塔(宝篋印塔と五輪塔が組み合わさったような石碑)群が建立されています(上杉家の最終移封地である米沢の地にも竹俣家は随行し、城下の外れには竹俣家の菩提寺として宝積寺が創建されています)。

宝積寺:写真
宝積寺 宝積寺 宝積寺 宝積寺



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