加茂次郎義綱:概要

  新潟県:歴史・観光・見所新潟県:歴史・人物>加茂次郎義綱

概要・歴史・観光・見所
加茂次郎義綱(西光寺)

【 概 要 】−加茂次郎義綱は源頼義の子供として生まれ、兄には源義家(後裔は源氏宗家、足利氏、新田氏など)、弟には源義光(後裔は武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏など)、京都の加茂神社で元服した事から加茂次郎などと称しました。前九年合戦(永承6年:1051年〜康平5年:1062年に行われた奥州安倍氏の争乱)に従軍し大功を挙げ右衛門尉に列し陸奥守となり寛治7年(1093)に出羽守平師妙・師季の乱を鎮めた事から従四位下に列し美濃守となっています。

天仁2年(1109)、宗家である義家の後継者と目された4男義忠が殺害されるという事件が発生し、無実の罪を着せられた義綱は逃亡の末源為義に捕縛され、佐渡島に島流しとなりました。義綱には6人の子供がいましたが悉く不幸な死を迎えた為、義綱は出家、しかし、嫌疑を晴らす事が出来ず長承元年(1132)自害に追い込まれています。

加茂地方に伝わる伝承によると応徳元年(1084)、奥州安倍氏の生き残りで妖術を扱う黒鳥兵衛が突如として越後に入ると当地方を掌握し悪事を働いた為、住民は佐渡に流された義綱の噂を聞き及び黒鳥追討を懇願しました。意気に感じた義綱は青海神社(加茂市)と加茂神社で戦勝祈願を行い、激戦の末、遂に黒鳥を討ち取ります。

しかし、義綱も数多くの矢を自ら受けた為、その傷が元になり加茂の地に没したと伝えられています。西光寺(加茂市)は承徳元年(1097)に義綱によって菩提寺として開かれたとされ天仁元年(1108)に義綱が死去すると亡骸が葬られたと伝えられています。信憑性は不詳ですが寛延2年(1749)に描かれた「西光寺境内絵図」には「加茂次郎御廟所」として記載され、寛政5年(1793)に編纂された村明細帳にも廟所の記載が確認されている事から少なくとも江戸時代中期には義綱の墓碑として認識されていたようです。

西光寺:写真
加茂次郎義綱と縁がある西光寺 加茂次郎義綱と縁がある西光寺 加茂次郎義綱と縁がある西光寺 加茂次郎義綱と縁がある西光寺
青海神社:写真
加茂次郎義綱と縁がある青海神社参道石段と燈篭 加茂次郎義綱と縁がある青海神社拝殿右斜め前方 加茂次郎義綱と縁がある青海神社回廊(鶯張廊下) 加茂次郎義綱と縁がある青海神社本殿と石造玉垣



※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「新潟県:歴史・観光・見所」は「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」、「郷土資料辞典:新潟県」、「日本の城下町:甲信越」、「有限会社建築相談センター」、を参考にさせていただいています。※プライバシーポリシーはこちらです。