弁慶井泉(長岡市寺泊)概要: 案内板によると「 文治3年(1187)、源義経、弁慶主従が、北国落ちのとき、ここ五十嵐邸にしばらく滞留したと伝えられ、そのとき弁慶が自ら井戸を掘って義経に供したといわれている。文化年間に漢学者の亀田朋斎が五十嵐家を訪れ、弁慶井泉の詩をつくった。・・・・(後略) 長岡市」とあります。新潟県内の日本海側は義経の奥州平泉(岩手県平泉町)への下向ルート説があり、逸話や伝承が多くの残り、この場所もその1つです。ただし、多くが源義経の没後200年以上後の記された「義経記」に起因するもので、その「義経記」も軍記物として資料的価値は殆ど無いと言われています。五十嵐家は古くから当地域を支配した旧家で平安時代末期には寺泊を中心に67ヶ村を領していたとされ、義経、弁慶一行だけでなく、承久3年(1221)には順徳上皇が佐渡に流される際の行在所、永仁6年(1298)には藤原為兼が佐渡に流される際の滞在所、興国2年(1341)には宗良親王(後醍醐天皇の第5皇子)の拠点の1つとなっています。明治以降は衰退し現在はその敷地が史跡公園「聚感園」として整備されています。
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