新潟市: 一山寺

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概要・歴史・観光・見所
一山寺(新潟市)概要: 天照山一山寺の創建は不詳ですが以前は小庵を結ぶ程度の小規模の寺院だったと言われています。三根山領(6千石、後1万1千石)に初代領主牧野定成が配されると現在地近くに境内を移され、万治元年(1658)に定成が死去するとその菩提を弔う為、二代忠清が万治3年(1660)に本堂(桁行9.5間、梁間5間)を再建し寺号を一山寺と改称(牧野定成の法号、隆崇院一山大居士から)、三根山牧野家の代々の菩提寺としました(牧野家は三根山藩を立藩した後も江戸定府大名だった為、三根山陣屋で政務はとらず参勤交代もありませんでした。一山寺には位牌と墓碑があるものの実際には遺骸が埋葬されたことはありません。)。江戸時代は牧野家の庇護により寺勢も隆盛し江戸時代末期の慶応年間(1865〜1869年)には堂宇を再建しています。寺宝も多く、藩主が使用した駕籠や九死相図、本堂天井画、本堂御成之間(藩主が座る背後の掛け軸の裏は抜け穴があったと伝えられています。)、行基菩薩(奈良時代の高僧)が彫り込んだと伝わる菩薩像、兆殿司(室町時代の画僧)が描いた釈迦の弟子羅漢図などが残されています。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

【 一山寺菩提者:牧野家 】

-三根山牧野家は長岡藩初代藩主牧野忠成の4男定成が蒲原郡三根山領6千石を分知され成立した氏族です。当初は1万石に達していない事から諸侯ではなく幕府の寄合旗本となっています。2代忠清は西城書院番、書院番頭、3代忠貴は側用人、5代忠知は西の丸書院番番頭などを歴任しました。10代忠興に嫡子がいなかった為、五島盛保(福江藩主五島盛繁の3男)の長男忠泰を養子とし、安政4年(1857)、忠泰の代に1万1千石に高直しされて諸侯に列し改めて三根山藩を立藩し、忠泰が初代藩主になっています。戊辰戦争の際は本藩である長岡藩と共に奥羽越列藩同盟に参加しましたが、長岡城が落城すると士気が低下し新政府軍が領内に侵攻すると同時に降伏、その後は恭順し新政府軍と共に庄内藩領に進軍し戦後の改易を免れています。明治3年(1870)に三根山藩から長岡藩に米100俵送った逸話は有名で、長岡藩では食料として消費せず人材育成で費やし多くの有能の人材を輩出しました。藩庁である三根山陣屋から少し離れた場所に菩提寺である一山寺があり、三根山牧野家は定府の江戸詰だった事から菩提は埋葬されず歴代領主、藩主の供養の為の墓碑が一山寺境内に建立され、本堂には位牌が安置されました。

一山寺の牧野家累代の御墓(案内板参照)
・ 前段三基 向かって右より
・ 2代:牧野忠清−元禄6年(1693)2月5日没−享年72歳
・ 3代:牧野忠貴−宝永3年(1706)9月15日没−享年49歳
・ 初代:牧野忠成−万治元年(1658)10月7日没−享年42歳
・ 後段10基 向かって右より
・ 10代:牧野忠興−安政4年(1857)7月6日没−享年25歳
・ 8代:牧野忠衛−天保5年(1835)7月7日没−享年36歳
・ 7代:牧野忠教−文政7年(1824)8月10日没−享年38歳
・ 6代:牧野忠義−享和3年(1803)7月2日没−享年46歳
・ 5代:牧野忠知−寛政12年(1800)12月23日没−享年76歳
・ 4代:牧野忠列−宝暦4年(1754)7月24日没−享年60歳
・ 9代:牧野忠直−嘉永7年(1854)6月18日没−享年33歳
・ 観相院殿−明和6年(1769)9月18日没
・ 霊稀院殿−明治32年(1899)1月30日没
・ 12代:牧野忠良−昭和8年(1933)10月2日没−享年67歳

一山寺:写真

一山寺
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